第72回大会発表要旨②

「歌のやうなる」ことばへの感応ということ
     ―『土左日記』楫取のことばから『和泉式部日記』諸本論へ―
                中央大学附属中学校・高等学校 金井利浩
 
 「朝日新聞」二〇一七年三月一〇日付朝刊の「文化・文芸」欄は、なにげない文章や風景のなかで、たまたま五・七・五・七・七となっている言葉の響き、世にいわゆる「偶然短歌」をネット上で味わい楽しむ動きの盛行を伝えていた。
 千年以上の時を越えて、かく同断の感覚的反応を見せる人間という存在の不思議を思うべきか、日本という風土に根ざして生きる人間にいつのまにか、しかし厳に組み込まれてきたDNAなるものの神秘を改めて畏怖しつつ欣喜すべきか、わたしたちは、かの『土左日記』の楫取が、「御()(ふね)より、仰(おふ)せ給()ぶなり。…」と発した「おのづからなることば」に、「歌のやうなる」として即感応した書き手の存在を知っている。あるいはそれと同じ列に、『古今和歌集』仮名序に対したいわゆる古注の記主、『源氏物語』は桐壺帝のことばに対した桐壺更衣、和徳門院の新中納言の君からの文に対した『十六夜日記』の書き手、といった存在を連ねることもできるだろう。
 さて、そこにさらに、『和泉式部日記』の「てならひのやうにかきたる」「女」のことばに対した「宮」を加えたい、加えるべきである、というのが、本発表の趣旨である。それは、こんにち定着ないし固着化しつつある和泉式部日記諸本論について、再考ないし解体を迫らねばならぬ事由の起点にもなるはずである。