第83回大会要旨

【題名】『紫式部集』八六番歌八七番歌の紫式部の心意と「物や思ふ」と問うてきた人  

 物をめぐって                          田嶋 知子

 

 『紫式部集』(陽明文庫本)の配列は、77番歌から続く敦成親王産養儀賀歌群が80番歌で終わり、81番歌からは一転して式部の私生活歌が連なる。本発表で問題とする86、87番歌もこの私生活歌の括りに入るわけであるが、86番歌を詠作した式部の心の位置を捉えるために、それ以前に連なる81番歌から85番歌までの紫式部の心の様相を確認していく。その際に、『紫式部日記』里居の記述に言及する。更に、平安勅撰和歌集、『源氏物語』の「なでしこ」「とこなつ」の使用例を確認した上で、諸注も指摘する『源氏物語』(「帚木」巻)と86番歌を比較検討する。また、86番歌と87番歌の関連における連動について言及し、「わづらふことあるころなりけり」は、87番歌の左注の役割でもあり、88番歌の歌意にも関わる詞書の役割としても記された一文であったことを述べた上で、86番歌の式部も87番歌同様、病気であったことを指摘し、その観念的な心を考察する。87番歌は「物や思ふ」と式部に問うてきた人物が宣孝であった可能性について言及する。それには、詞書の「人の問ひたまへる」という敬語の使用が問題となるが、家集から宣孝の人物像を考察し、更には、『源氏物語』の皮肉的な敬語の使用例との検討により人物特定に少しでも繋がればと思う。また小塩豊美氏が、紫式部が『賀茂保憲女集』を披見していた可能性について述べておられる。小塩氏のご論を踏まえながら本発表では、「枯れ行く」「葉わけの露」に言及し、人を招くとされる「花すすき」との関係を論じ、87番歌の式部の心象風景を論じていきたいと思う。

 

【題名】『和泉式部日記』冒頭部分の一考察―橘の含意・伊勢物語第六十段・なぜ    

     「香」より「声」か―       早稲田大学高等学院  松島 毅

 

 本発表では、『和泉式部日記』冒頭部分―帥宮から橘の枝が届けられ、それに触発されて主人公「女」が最初の歌「薫る香によそふるよりは時鳥聞かばや同じ声やしたると」を詠むくだり―を考察する。「薫る香に」歌は、かつては「女」の歌に帥宮敦道親王)に対する誘惑が読み取れる歌だとされ、故宮(為尊親王)死に対する悲嘆との不調和や、実在の和泉式部に根強い多情のイメージとの関連もあり、研究史以来、多くの論争が重ねられてきた。九〇年代後半、「薫る香に」歌については、和歌史の知見をもとに再検討が行われ、解釈に大きな修正が加えられているが、その一方、歌の契機となる、帥宮から「女」に贈られた橘の枝の含意や、「女」が思わず発する「昔の人の」の引歌にどのような感情が表現されていたかについては、あまり突き詰められてこなかったのではないだろうか。さらにいえば、なぜ「女」が「香」よりも「声」を望むのかという点には、さほど説得的な説明がなされていない。本発表ではこの課題に取り組む。具体的には、引歌の本歌である「五月待つ花橘の香をかげは昔の人の袖の香ぞする」の歌意を洗いなおすこと、次いでこの「五月待つ」歌を核として構成される『伊勢物語』第六十段との関係を検討することを通して、最終的に冒頭の場面がどのようなやり取りとして描かれているのかを考えたい。これまでも多くの考察が重ねられた問題であるが、少しでも新たな角度から光を当てられればと思う。